去年の6月から住み始めたこの町には銭湯がたくさんあって、疲れがたまると銭湯に行ってリフレッシュ、ということが簡単にできるようになった。上京したばかりの頃の私は、生まれ育ったのが温泉で有名な地域ということもあって、東京の『銭湯』という文化が不思議で、源泉でもない熱いお湯に大勢で入って何になるんだろう……と生意気にも思っていた。しかし、やはり染み付いた温泉文化が愛おしかったのか、たかが熱いお湯に入るだけの施設に1回2000円近くかかったとしても、わざわざ1時間近くかかる場所に遠出してまでも、スーパー銭湯なる施設に行くようになるまでそう時間はかからなかった。しかしやはりスーパー銭湯。誤魔化したような湯と、誤魔化しきれない料金がなかなかに足を遠ざけるのは仕方がなかった。

 

しかし銭湯は460円である。組合かなにかに所属しているとかで一律に同じ料金で楽しめる。私の現在の家からは、歩いて通える範囲に5軒は銭湯があり、そのどれもが460円で楽しめるのだ。スーパー銭湯の1/4である。これはこれは、と、この1年はとにかくよく銭湯に通っている。もはや通うという概念でもない。「今日は疲れたから銭湯に寄って帰りましょう」「明日からも頑張るために銭湯にでも行きましょうか」そんな会話がごく自然とされ、銭湯は我が家にすっかり溶け込んでいる。

 

銭湯は面白い。私は基本的に一人を好むし、ざわざわしたところや人が近い空間は得意ではない。銭湯は他人と裸で湯を共有する空間だ。「効能があるわけでもないお湯に他人と入って何が楽しいのだ」そう思っていた時代が私にもあった。しかしそれは違うと声を大にして主張したい。銭湯は楽しいのだ。まず、一人の空間が邪魔されることはまずない。友人や親子で一緒に入浴しており、会話を楽しみながら入浴している人もいるにはいるが、基本的にはそこは誰にとっても共通の『風呂場』であり、パーソナルな空間なのだ。『温泉地』とは違う。とくにこの連休前最後の夜、日曜の夜などもそうだが、基本的に地元の人の割合が増える時間帯は如実にその傾向が強まり、念入りにパックをするもの、カミソリでケアするもの、軽石でかかとをけずるもの……まるで自宅の風呂場のような我が物顔で空間をつかう玄人たちが集まる。その瞬間が私はたまらなく心地よく、おもむろに太もものマッサージを始めたりするのである。

 

正直、銭湯がこんなに好きになると思っていなかった。他人と何かをするのは好きではないほうだし、もはや人間が好きじゃないのかなと思い悩むこともなくはないのだが、銭湯でほかの人の存在を許容しながら、いろんな人生を妄想している自分に気づくと、「私そんなに人間嫌いじゃないな」と思えたりする。こんな人間がいると思うと、人は気味悪がって銭湯に行けなくなりそうだが、どうかそうならないでほしいと思う。とにかく、私にとって銭湯は、自分を許せる憩いの場所なのだ。